コミュニティ初参加の「居心地の悪さ」を肯定する——保坂和志さんの考え方


2024年くらいから、アジャイルコミュニティに参加しはじめ、昨年は月1回は何らかのイベントに参加していました。
個人的に、人見知りとまではいかなくても、積極的に自分から話しかけるタイプではないと思っています。コミュニティに参加する際、運営の方が気さくに話しかけてくれたり、ワークショップで対話の場が設けられていたりと、歓迎されている雰囲気を感じることは多くあります。
まず第一に場を作っていただいている方々の御配慮が前提にあり、それがなければ、たぶんコンスタントに参加はしていないと思っています。
それでもコミュニティに初参加する時は、なにか「居心地の悪さ」を感じることがあります。 この居心地の悪さの解釈に、保坂和志さんの小説やエッセイで書かれている考え方が参考になると考えていて、そのあたりの紹介をさせてもらおうと思います。
コミュニティの参加で「居づらさ」を感じる状況 | コミュニティの参加レベルについて
レイヴとウェンガーの「正統的周辺参加(LPP)」の考え方を参考にすると、コミュニティの参加には段階がある と思っております。その中でレベル0の人が、レベル1に行くには?という話です。 前提として「学びたいという意志」は必要だと思いますが、レベル0の状態を打破するには、居心地の悪さと 付き合う必要があります。 この居心地の悪さと付き合うための考え方として、保坂和志さんの考え方が役に立ちます。
| レベル | 参加の段階 | 📌 特徴 | 👣 関わり方 | 🚀 次のレベルへ |
|---|---|---|---|---|
| レベル0 | 😶 形式的参加 | 役割が見出せず、心理的安全性が未確保。 | 発言をためらい、場を「居づらい」と感じる。 | 🌱 心理的安定の獲得 |
| レベル1 | 👀 周辺的参加(周辺グループ) | 警戒心が和らぎ、「傍観者」に徹する。 | メンバーの交流を見守り、情報をインプットする。 | 🤝 信頼感の芽生え |
| レベル2 | 💬 アクティブ参加(アクティブ・グループ) | 信頼感が芽生え、自発性が生まれる。 | 興味のあるテーマの際に、時折参加・発言する。 | 🔥 プロジェクトの牽引 |
| レベル3 | 🌟 コア参加(コア・グループ) | 中心的存在となり、活動を自ら駆動させる。 | 全体をリードし、思考リーダーなどを担う。 | - |
保坂和志さんの考え方から学ぶ「居心地の悪さの付き合い方」
このような「居づらさを抱えたまま、その場に留まること」を肯定するうえで、小説家・保坂和志さんの考え方は大きな支えになりました。 「居心地の悪さの付き合い方」についてです。
まず、紹介
保坂和志さんは1990年から活動している小説家で、1995年に『この人の閾』で芥川賞を受賞されています。個人的には2000年代に音楽雑誌『ele-king』で連載されていたコラムなどをきっかけに読み始めました。 個人的に好きな作品は以下になります。
- 『プレーンソング』『草の上の朝食』
- 『羽生』
- 『カンバセイション・ピース』
- 『ハレルヤ』
小説は、ストーリー小説と、非ストーリー小説があるとしたら、ストーリーがありません。 おそらくこのあたりで人によって、好き嫌いが分かれると思います。
以下は、ほぼ日刊イトイ新聞 - カンバセイション・ピース。からの引用です。インタビュー記事で以下のような内容が書かれています。
作る方は、ストーリーがきちんとできてると、そのストーリーに頼っちゃうところがあるから、一部分でヘンなことを書いたり、だらけたりしても、「ストーリーが引っぱってくれる」と思いがちなんですけど、ぼくは、「ストーリー」じゃなくて、小島信夫さん曰く、「そのつどそのつどおもしろい」というか、ずーっと何だかおもしろいっていう書き方が、いちばん、いいんじゃないかと。
居心地の悪さの付き合い方
保坂さんのエッセイや小説を読んでいて、記憶に残っているフレーズがあります。 以下は、途方に暮れて、人生論 | 草思社 の中のエッセイからの引用です。
普通の人の人生というのは、空虚さによって実感されるものなのではないか、
楽しい時間や充実した時間が人生のメインイベントであるように思いますが、保坂さんはそうではないと言います。 むしろ、空虚な時間、退屈で長く感じる時間が、人生の本質を実感させてくれる時間なのではないかと いうことを書いています。
筆者はこのエッセイを読んで、空虚な時間、退屈で長く感じる時間への耐性が付き、充実している時間だけでなく、充実していない時間も楽しめるようになりました。
コミュニティで「居心地の悪さ」を覚える時もこの長く感じる時間であり、この時間こそが人生の本質である。 「居心地の悪さ」そのものを引き受けることは、それほど悪いことではないと考えています。
居心地の悪さを感じながらも、場に留まることの意義
じゃあ、そんな居心地の悪さを感じながらも、場に留まることの意味はあるのか? というところですが、筆者は少し長い時間感覚で考えると意味があると思っています。
「居心地の悪さ」を許容する意味があったのだと気づくことができたのは、後日、別のコミュニティイベントに参加したときでした。他の参加者から「あの時のイベントにいらっしゃいましたよね?」と声をかけられたのです。
レベル0でも存在していたことが認識されていて、後日、別のイベントに参加したときに声をかけてもらうことで、存在が承認され、徐々にレベル1へと移行していくように思えました。
最後に
もし今、どこかのコミュニティで 居心地の悪さを懸念して、興味はあるが参加をためらっているなら、
保坂和志さんの考え方を参考に、居心地の悪さを受け入れて参加してみても良い気がしています。
ただ同じ空間で同じ時間を過ごすだけで、あなたの存在はそこに刻まれています。 ただ存在することから始めてみると、徐々に存在が承認され居心地の悪さがなくなっていくと思います。
保坂和志さんに興味を持たれた方は、ぜひエッセイや小説を手にとってみてください。
以上、コミュニティでの「居心地の悪さ」と付き合うことについての考察でした。